とぶさんは、就職したらその会社に定年まで勤めるという人生を送ると思っていたのですが、ころころと転職をしてしまう人生を歩むとは全く思っていませんでした。
最初に思っていた仕事とは違い、思いもつかない方向に進んでしまいました。
親の介護をするにはサラリーマンでは難しく、自宅で出来るある仕事をするしかありませんでした。
インターネットという技術が、いつでもどこにいても出来る仕事の可能性を作ってくれました。
自宅でも外出先でも、介護のすき間時間に場所を選ばず出来る仕事にめぐり会えました。
なぜか銀行員に・・・
将来の就職を考えて、その当時は化学系の大学に進学したのですが・・・。
日本は資源が少ないので、いかに資源を再利用して有効に使えるのかを学ぶ化学系の学科に行けば、将来就職しやすいだろうと考え、とある大学の資源循環化学科に入りました。
しかしながら大学時代にパソコンが広まり始め、やってみると興味が出て、パソコンのプログラミングをする仕事をやってみたいと思うようになりました。
それで地元の就職先を探してみると、銀行のオンラインシステムの開発をするプログラマーの募集があり、地元の地方銀行の銀行員として就職しました。
大学の教授からは、化学系の学科を出ながら銀行に就職したので、大学での研究費は国立大学なので税金でまかなわれており、税金の無駄遣いだとしかられもしました。
プログラマーは自分に合った仕事だと思っていたのに
その当時、パソコンや携帯電話を使って残高を調べたり、お金を振り込んだりすることが出来るようになってきていたので、担当としてはインターネットバンキングなるものを開発していました。
責任のある仕事を任され、やりがいもあって自分に合っている仕事だと思えていたので、この銀行に定年まで勤めると思っていました。
ところが銀行のシステム開発をしている部署が、全国展開しているソフトウェアの会社に出向するような展開になりました。
長男なので地元の会社に入ったのに、別会社に転籍し全国に転勤する可能性が大きくなったのでは意味がないと思い、18年勤めた銀行ですが退職して、実家の近くの食品会社に転職しました。
転職する直前に、銀行内の社内恋愛から結婚もしました。
というのも結婚しても夫婦で同じ銀行に勤めることはできず、どちらかが辞める必要があったので、銀行をやめる直前に結婚となりました。
銀行は給料もボーナスも良かったので迷いましたが、退職するまで全国を転々とすることには耐えられないので、地元で落ち着いて仕事をすることを選びました。
地元の食品会社に転職
前職が銀行員であったのですが、プログラマーしかやったことなく、それを18年やってきたので、それ以外の仕事は0からのスタートとはなりましたが、色々な仕事を経験することができました。
新しい仕事の始まりですが食品会社では、まずは経理や総務を担当していました。
そのうち人事も担当することになり、新規採用から人事研修などすることになりました。
中国に工場があったこともあり、中国人の採用や、日本国内の工場の研修生として中国人を連れてくるために、中国に行って面接をして研修生を連れ帰るようなことも担当しました。
食品会社では、総務、経理、人事、営業、工場(製造)とわずか5年の間に色々な業務に付きました。
多くの部署を経験し、会社全体が見えるようになって、この食品会社で定年まで勤めようと考えていたのですが、そうもいかなくなり結局5年でやめることになってしまったのです。
はじめはこの上司と共に会社を発展させていきたいと思い描いていたのに、上司の言うことに一貫性がなく、その都度言うことが変わるので方向性に明らかな違いが出てきました。
そうなると上司との人間関係もうまくいかなくなって、うつ状態になってしまいました。
そして、明るい未来が見えない状態で仕事を続けるのは、限界だと考えるようになりました。
健康保険組合に転職
そんな時、別の会社から誘いがありました。
ある健康保険組合からですが、全国に支所があるので転勤のことが気になりましたが、気持ちを切り替えて新しい職場で仕事をしたかったので、誘われるままに転職することになりました。
嫁は、私がうつでいることをとても心配してくれていたので、転職して元気になってくれる方が良いと転職にはすぐに賛成してくれました。
今までやったことのない業種ですので、また1からのスタートとなり、不安も大きかったですが、とても職場での人間関係がスムーズになったので、働きやすい職場に来れてほっと出来ました。
それまで、健康保険についてほとんど知らなかったので、とても勉強になりました。
うつ病から復活出来るようになったので、とても感謝する職場でありました。
ここでもまた、定年まで働けるといいのにという思いがあったのですが、5年で退職することになるのです。
両親が介護状態に
健康保険組合に入ったのは良かったのですが、ここも全国展開の会社になります。
地元の支部に配属されている間は問題ありませんでしたが、転勤問題がいずれ発生することに・・・。
管理職はほとんどが転勤経験者になるので、全く転勤をしない訳にもいきません。
そんな折、母親が脳出血で倒れ右半身が動かなくなったり、父親がガンで入退院を繰り返し、両親ともに介護する必要が出てきました。
健康保険組合の仕事を続けながら、親の介護をしていきたかったのですが、サラリーマンとして働いていると、親の介護の負担が妻に大きくなるし、転勤拒否も限界になってきたため、一旦退職して介護に専念することにしました。
親の介護をしながら自宅で出来る仕事とは
自宅で親の介護をしながら出来る仕事をするしか方法は無いと思っていました。
パソコンは仕事でとっても使っていたので、ある程度使いこなすことができるので、インターネットビジネスなら、どこにいても好きな時間に仕事が出来るようなので始めて見ることに。
平日の日中は、親を病院に連れて行ったり、食事のトイレの介助など両親の介護をするのですが、そのすき間時間や夜中の時間を利用して、インターネットがつながる場所であれば、どこでもいつでも仕事が出来ることはスゴイことだと思います。
そんな仕事はインターネットという市場が出来たことで、実現されたんですね。
取り組んだのはアフィリエイト
インターネットビジネスにも色々ありますが、私が取り組んだのはアフィリエイトというビジネス、しかもサイトアフィリエイトというものでした。
サイトアフィリエイトは、商品やサービスを売りたい人に、購入しそうな人を紹介して紹介料をもらうビジネスです。
まず、自身のホームページ(サイト)やブログ記事に、特定の商品・サービスを紹介する記事を書いて、訪問者をその商品・サービスを販売する会社の販売ページに誘導します。
そして、訪問者が商品やサービスを購入すると、紹介料として成果報酬をもらうビジネスになります。
とぶさんは、様々な悩みを解決する方法を検索してくる人に対して、解決するための商品を探し出して、紹介してあげることで、購入数を増やしていきました。
すぐには稼げない
インターネットビジネスは、何時間働いたからこれだけの報酬というのが、すぐには結果として現れません。
しばらくは、ほとんど稼げません。やった時間は毎日12時間以上やっても、稼げませんでした。
10ヶ月経っても、月に100,000円程度でした。
1年経過したところで、やっと300,000円の月収になったところでした。
しかし年収として計算してみると、1,000,000円をわずか超えた収入しかありませんでした。
これでは、生活していくことが出来ないかも知れないと思いましたが、収入は少しずつですが増えているので、あきらめずに続けることに・・・。
継続は力なり
なかなか稼ぐことのできないインターネットビジネスであるサイトアフィリエイトですが、大きく収入が上がったのは、サイトを作り始めて14ヶ月目からでしょうか。
月収で50万円に達すると、その半年後には100万円を超え、その2ヶ月後に200万円を超え、そしてその3ヶ月後に300万円というピークを迎えました。
その後は、150万円程度を維持するようになりました。
あきらめないで続けるとスゴイと思いました。
親の介護をしながら、生活するための仕事も両立することが出来る理由は・・・
とぶさんがやったインターネットビジネスとは
ネット上に商品の紹介記事をたくさん載せておいて、お客さんが勝手に検索して、商品の販売会社のホームページから購入するという仕組みのものです。
商品を紹介する記事は、空いてる時間に作って、いつでもネット上に載せることが出来ます。
お客さんは、自分の好きな時間にその記事を見て、良いと思ったら購入してくれます。
商品自体は、販売会社が発送し、お客さんは販売会社にお金を支払います。
自分のところには、商品を紹介した紹介手数料が収入として上がるわけです。
なので、仕事は好きな時間に好きなだけすることが出来るんです。
好きな時間にどこででも仕事ができるというのが、大きなポイントです。
なので、平日に病院に連れて行ったり、介護をしたりすることが自由に出来るようになります。
サラリーマン時代と違って、自分が主体となって嫁と一緒に両親の介護に携わることで、夫婦の関係も良くなり、相手を思いやる余裕も出てきました。
嫁も以前に増して、積極的に私の両親の介護に協力してくれるようになりました。