[著者情報]
👤 この記事の書き手:高田 健一
耳鼻咽喉科専門医 / 嗅覚外来担当医
大学病院の嗅覚外来で15年以上にわたり診療を担当。数千人の嗅覚障害患者様の治療とリハビリを指導してきました。「匂いがしない孤独と恐怖」に深く寄り添い、科学的根拠に基づいた「嗅覚刺激療法」の普及に尽力しています。
風邪やコロナの熱が下がり、ようやく体調が戻ってきたと思った矢先のこと。
夕食の準備でカレーを煮込んでいるのに、「あれ? 全く匂いがしない…」と気づいて愕然とした経験はありませんか?
慌てて鍋に顔を近づけても、味見をしても、ただ温かいドロドロとした食感があるだけ。
鼻水も出ていないし、鼻はスッキリ通っているのに、なぜか匂いだけが世界から消えてしまった。
「もしかして、このまま一生、子供が作った料理の匂いも、季節の花の香りも分からないままなのだろうか?」
そんな得体の知れない恐怖と孤独感に襲われ、夜も眠れないほど不安を感じているかもしれません。
でも、どうか絶望しないでください。
嗅覚外来の現場にいる私から、まず一番にお伝えしたい事実があります。
それは、「嗅覚の神経は、大人になっても再生する数少ない神経の一つである」ということです。
この記事では、高価なアロマオイルをわざわざ買いに行かなくても、今あなたの家の冷蔵庫やキッチンにあるものを使って、今夜からすぐに始められる「嗅覚リハビリ(嗅覚刺激療法)」の方法をお伝えします。
焦る必要はありません。あなたの鼻は、治ろうとしています。正しい知識とリハビリで、その回復を一緒に後押ししていきましょう。
なぜ「鼻づまり」がないのに匂いが消えたのか?
「鼻は通っているのに、匂いだけがしない」。
これが、風邪やコロナウイルス感染後に起こる嗅覚障害の最大の特徴です。
私たちが普段「鼻づまりで匂いがしない」と感じるのは、鼻水などで空気の通り道が塞がれ、匂いの分子が奥まで届かない状態です。
これを医学的に「気導性嗅覚障害」と呼びます。
しかし、あなたが今直面しているのは、それとは全く別の原因によるものです。
ウイルスによって、鼻の奥にある「嗅裂(きゅうれつ)」という場所の粘膜がダメージを受けたり、匂いの信号を受け取る「嗅細胞」が一時的に機能不全に陥ったりしている状態。
これを「嗅神経性嗅覚障害」と呼びます。

ここで重要なのは、「嗅覚障害」と「嗅神経(再生)」の関係です。
一般的な神経細胞は一度死滅すると再生しませんが、嗅神経は例外的に「再生能力」を持っています。
たとえウイルスによって一時的にダメージを受けていても、適切な刺激を与え続けることで、神経は再びつながり、機能を回復しようとします。
つまり、今の「匂いがしない状態」は、決して「終わってしまった状態」ではなく、「回復を待っている状態」なのです。
【実践】アロマは買わなくていい!「0円嗅覚トレーニング」のやり方
では、神経の再生を促すために、私たちは何ができるのでしょうか?
現在、世界中の医学会で最も効果が実証されているリハビリ方法が、「嗅覚刺激療法(オルファクトリー・トレーニング)」です。
本来の医学的なガイドラインでは、バラ、レモン、ユーカリ、クローブという4種類の特定のアロマオイルを使用することが推奨されています。
しかし、「今すぐ始めたいのに、そんなアロマ持っていない」「買い揃えるのが面倒で、結局何もしていない」という方が非常に多いのが現実です。これでは本末転倒です。
リハビリで最も大切なのは「継続」です。
そこで私は、「嗅覚刺激療法」の代替手段として、家にあるものを使った「0円嗅覚トレーニング」を推奨しています。
用意するもの(家にある強い匂いのもの4つ)
わざわざアロマを買う必要はありません。
以下のリストから、ご自宅にある「種類の違う匂い」を4つ選んでください。
- コーヒー(粉、または淹れたて)
- カレー粉(スパイスの刺激は最適です)
- ミント系のもの(歯磨き粉、ハッカ油など)
- 柑橘系のもの(ミカンやレモンの皮、または香水など)
トレーニングの手順
このリハビリは、朝と晩の1日2回行います。
- 選んだ4つのアイテムをテーブルに並べます。
- 1つ目のアイテム(例:コーヒー)を鼻に近づけ、15秒間、自然な呼吸で匂いを嗅ぎます。
- 少し休憩し、次のアイテム(例:カレー粉)へ。これを4種類すべて行います。
✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス
【結論】: 匂いが全くしなくても、「これはコーヒーだ、黒くて苦いあの香りだ」と脳の中で強くイメージしながら嗅いでください。
なぜなら、嗅覚は鼻だけでなく「脳」で感じるものだからです。実際の匂い信号が弱くても、記憶の中にある匂いを呼び起こすことで、脳の神経回路が刺激され、再生の呼び水となります。「匂わないから意味がない」と思わず、脳に語りかけるつもりで行ってください。

いつまで様子を見る?病院へ行くべき「1ヶ月」の壁
「リハビリは始めたけれど、やっぱり心配。すぐに病院へ行くべき?」
「それとも、自然に治るのを待つべき?」
この「受診のタイミング」については、明確な基準があります。それは「発症から1ヶ月」です。
感冒後嗅覚障害の多くは、発症から2週間〜1ヶ月程度で、神経の自然修復により徐々に改善することがあります。
そのため、発症直後であれば、まずは焦らずに自宅で「嗅覚トレーニング」を続けながら様子を見ても大きな問題はありません。
しかし、「1ヶ月」が経過しても全く匂いが戻らない、あるいは少しも変化を感じない場合は、耳鼻咽喉科(できれば嗅覚外来のある病院)を受診してください。
受診の際は、以下のメモを持っていくとスムーズです。
- いつから匂いがしないか
- 全くしないのか、少しはするのか
- 自宅でどんなリハビリを試したか
✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス
【結論】: 1ヶ月以内であっても、「全く味がしなくて食事がとれない」「ガス漏れが不安で生活できない」など、ストレスが限界に達しているなら迷わず受診してください。
なぜなら、医師と話して現状を確認するだけでも、精神的な安心感が得られるからです。ストレスは神経再生の大敵です。「まだ行ってはいけない」という決まりはありませんので、あなたの不安の大きさに合わせて判断してください。
よくある質問(亜鉛の効果・焦げ臭い匂いなど)
最後に、診察室で患者様からよくいただく質問にお答えします。
Q. 亜鉛のサプリメントは効果がありますか?
A. 補助的な効果が期待できます。
亜鉛は細胞の代謝に関わる重要なミネラルで、神経再生をサポートする働きがあります。劇的な特効薬ではありませんが、リハビリと併用して、食事やサプリメントで摂取することは医学的にも理にかなっています。
Q. 最近、焦げ臭いような変な匂いがするようになりました。悪化でしょうか?
A. いいえ、それは「異嗅症(いきゅうしょう)」と言って、むしろ回復の兆しである可能性が高いです。
再生途中の神経が、まだ不完全なつながり方をしているために、本来とは違う匂いとして脳に伝わってしまっている状態です。神経が正しくつながるにつれて、徐々に本来の匂いに戻っていくことが多いので、焦らずリハビリを続けてください。
まとめ:焦らず、諦めず。嗅覚は少しずつ戻ってきます
突然匂いを失う体験は、本当に怖いものです。
しかし、あなたの鼻の奥にある神経は、今この瞬間も治ろうと頑張っています。
- 原因は神経のダメージですが、神経は再生します。
- アロマがなくても、コーヒーやカレー粉で今すぐリハビリを始めましょう。
- 1ヶ月経っても変化がなければ、専門医を頼ってください。
嗅覚の回復は、短距離走ではなくマラソンのようなものです。
今日やって明日治るものではありませんが、毎日少しずつ、脳と鼻に刺激を与え続けることが、回復への一番の近道です。
まずは今夜、キッチンのコーヒーの瓶を開けて、深呼吸することから始めてみませんか?
その小さな一歩が、再び色鮮やかな香りの世界を取り戻すための大きな力になるはずです。
[参考文献リスト]
- 嗅覚障害診療ガイドライン – 日本鼻科学会
- 嗅覚障害の治療とリハビリテーション – 金沢医科大学 耳鼻咽喉科
- Hummel T, et al. “Effects of olfactory training in patients with olfactory loss.” Laryngoscope. 2009.